国語力が足りない現代
この現代において段々と国語力が無くても生活において不便しないのはいいことだろうか。
例えばこの間ふらっと立ち寄ったラーメン屋。
店員に希望のメニューを伝え、それが厨房にまで届く。
りょー
りょ?
言うまでもなく了解の略語ということは判断に難しくない。
その店舗独特のルールというか方針なんだな。とすぐに想像はつくだろう。
だが待ってほしい。
言語は生き物で日々変化があり、流行り廃りでいろいろな姿をみせるのもわかるが、その果てにはなにがあるのかと考えたことがあるだろうか?
「りょ」が了解、承知の認知度を超えたとき「りょ」が本来の語源に成り代わる。
そんな時代がくるのではないだろうか。
僕はそんなのあるわけないなと思考するも、すでに成り代わりがあるという事実があるのでそれが現実になりえると考える。
代替(だいたい) 重複(ちょうふく) 早急(さっきゅう)
これらの単語は既に読み間違いの成り代わりが起きている。
どころか入力の時点で間違った読み方であるにも関わらず正解の変換ができることに驚いた。
便利になったじゃないか。 といえばそれまでだが、ならば実際に声に出すときに正解を言えるのだろうか?
代替案を「だいたいあん」と読んだら、クッソ上目線で「だいがえあんでしょwww」って言われてさ
— Dante (@take4_fox) 2019年12月18日
ニコってした後、改めて「だいたいあん」って読み上げたら、スゲーキレてきてさ(笑)
どうでも良いやこいつ、って思ってたからスルーしておいた
なんならこのように間違いの方が正解を叩きにくるケースすらある。
そのうちに読みやすいように、わかりやすいように、言葉は変化していくのだろうか。